2022-07-30

馬鹿は治らない。

 僕の奥さんは精神に疾患がある。パッと見た感じだとわからないかもしれないけれど。今でこそ色々と状況が改善され、落ち着いている時間が長くなりましたが、症状が辛かった頃は、寝ているか。泣いているか。体は痩せ細り本当に見ている方でも辛い時間が続きました。本人はもっともっと辛かったと思う。

当時を振り返り彼女はこう呟く「目が覚めたら10年位経ってないかなって思ってた」

 そもそものきっかけ・原因は、僕には思い当たることがたくさんありすぎてわからない。自分が勤めていた会社の転勤に伴う引っ越し。彼女自身の仕事場での人間関係や仕事に対するこだわり。交通事故。何にせよそれらがまとまって彼女に病気の種がまかれ、発芽し、彼女の心を巣食ってしまった。悪い木々が成長してしまうまでの時間になんで、もっと守ってあげられなかったのか、考えてあげられなかったのか、気づいてあげられなかったのか自問自答の日々は今でも続く。

 最近ようやくその種に水や栄養を与えていたのは僕だったと認められるようになった。仕事ということを理由に、家庭内の仕事やメンテナンスの一切を彼女に任せ、彼女が不調を感じだした頃も、あまりうまく不安や不調に向き合っていなかった。もちろん『自分なり』には努力したつもりだが、それは所詮『自分なり』でしかなく、彼女がどれだけ、大変だったかは知らなかったと思う。今でこそ国や県や市からのサポートや良い先生との出会いなどがあるが、当時はそんなサポートがあることすら知らなかったし知ろうとしていなかった。彼女は一人で病院をたらい回しにされ、時に怪訝な対応をされ、時に厄介な患者として扱われていたのは、言うまでもない。そんな時僕は、彼女に寄り添って上げることではなく、仕事やそれにまつわる付き合いを優先していた。市役所などでもただでさえ体調が悪いのに、書類の不備を指摘されたり窓口で待たされたり。考えれば考えるほど、なんで僕は一緒に行ってやれなかったのか?もっと動けなかったのか。『自分なり』に家族を守るために働いているつもりだった、実はその逆で家庭を壊していたなんて思いたくなかった。街を歩く家族やカップルは楽しそうで良いなと思っていた。なんで俺の家はこんな風になってしまったんだと、根底にある原因などから目を背けていた本当に馬鹿でどうしょうもない男。全てをうまく乗り越えてやると意気込んでいたけど、結局なにひとつ乗り越えられず、大切な家族まで傷つけてしまった。

 好転のきっかけは、福岡で受診したクリニック。それまでは、お医者さんなりに、病気を痛みを治したいという思いからではあるだろうけれど、検査につぐ検査。結果はわかりません。問題ありません。の繰り返し。そのクリニックで初めてカウンセリングというものに出会ったと記憶している。「これまで何年もかけて、体調を崩してしまったんだから、体を治すのにも何年もけけないと」先生の言葉は今でも僕の中で響いている。

 しかし馬鹿は死ななきゃ治らないという言葉は本当で僕はまた間違いを起こす。人事異動の辞令がでた。行き先は横浜。当時九州に住んで10年を迎えようとしていた。街も、友人も何より奥さんが安心して通える病院、先生がいた。九州を終のすみかにしても良いなと思い始めていた。

 当時僕は、奥さんの問題とは別に親族の問題も抱えていた。早くに亡くなった父。残された母親を誰が見守るかという難題だ。兄弟で見守れば当面は大丈夫だろうと思っていたが、兄夫婦は、いずれ誰かが面倒を見なければならないんだからと、兄弟の誰かが母との同居が望ましいという意見を下げなかった。ただひとつ『俺たちは見ない』という条件をつけて。

 心底頭にきた。

 今思えば無駄な正義感や(正直今はほとんどなくなってしまった)母を思う気持ちが、爆発してしまい「俺が面倒みる、横浜への辞令も出ている」と兄夫婦へ啖呵をきり、会社には転勤を了承し横浜へ向かうことにした。離れていたからこそ良好だった、奥さんと母親の関係を『うちの奥さんなら、仲は良いし、きっと大丈夫だ』と引越し・義母との同居という道を選んでしまった。地獄行きのワンウェイ・チケット。馬鹿は死んでも治らないかもしれない。

 幼少期、健康でもないのに、背だけは大きく。ヒョロヒョロだった。喘息にアトピー性皮膚炎。母には本当に迷惑をかけてしまった。その頃優しくしてもらった記憶もあり恩返しだ、親孝行だと躍起になっていた。兄夫婦のにやけた顔がちらつくのも許せなかった。そんな自分に酔っていたのは今ならわかるがその時は何も考えていなかった。

 案の定生活は破城することとなる。当たり前だ。朝から晩まで知らない女と二人きり。唯一の仲間・理解者(でありたい)男は仕事・仕事。リラックスできる時間は1分もなかったはず。鈍感な僕でさえ様子がおかしいと思うくらい人間関係はギスギスしていた。決定的な出来事がいくつかある。「こんな固いものは食えない」「流しのスポンジが濡れている」あんなに優しかった母親が声を荒げている。息子である僕がそう思ったくらいだから奥さんはさぞかし辛かっただろうし、悲しかったろう。 確かに良い時間も少しはあった(と思いたい)。

 「お母さんににお返ししなさい」母親が俺に向かって言った。

 親なら孫を抱きたい平穏な生活を送ってほしいと思うのは理解できる。そりゃそんな生活も経験してみたかったよ。でも選ぶ権利は僕にある。奥さんにある。さようならお母さん。

 横浜での奥さんの病院探しも大変だった。市民病院では心療内科の先生が「今日でやめます。先生も辛いんですよね、あなたならわかってくれますよね」と奥さんに逆に話を聞かせて去って言ったりしていた。今でもお世話になっているS先生に出会うまでは。

 横浜の店舗から相模原の店舗へ移動が決まった。それまでの家賃補助が減額されたうえ朝6時には家を出て帰宅は深夜12時頃。やってもやっても給料は上がらない。一応補足すると当時の店舗では、売り上げ昨対も負けなし、接客調査でも1位。仕事だけはやってたんだよ。さらに津田沼の店舗への辞令がでた。引っ越しは本意ではないけれど家賃を下げたかった一心で了承した。そのタイミングで母には離婚して一人で暮らしていた弟のアパートへ引っ越してもらった。

(続く)